「はだか」と「はだし」 (002)

 このふたつの語は日本人であれば大人から子供までだれでも知っている。知らぬ人はない。両語の語義ははっきりしていて、疑問をもつ人もいない。たしかに疑問の余地はなさそうである。では、どういう言われがあって裸体を「はだか」と言い、裸足を「はだし」と言うようになったのか。どこから「はだか」「はだし」の語が出てきたのか。
 
 そこで日国を参照すると、語源説欄にはそれぞれ次の説がトップにあがっている。
 
「はだか(裸)」:
 「ハダアカ(肌赤)の義〔和句解・日本釈名・類聚名物考・俚言集覧・名言通・国語学=折口信夫・猫も杓子も=楳垣実〕」
 
「はだし(跣・裸足・跣足)」:
 「ハダアシ(肌足・膚足)の義〔俚言集覧・言元梯・松屋筆記・語・和訓栞(増補)・日本語原学=林甕臣・大言海・日本語源=賀茂百樹・猫も杓子も=楳垣実〕」
 
 これだけ豪華な顔ぶれが揃うとひるんでしまうのであるが、両説にはかなりの無理が感じられるので、いささか異論を唱えて見たい。
 
1)-1「はだあか(肌赤)」説の無理。「あか」は「赤」ではない。

 

 まず「はだ(肌)+あか(赤)」であるが、これを「赤い肌」ととって裸体の意とするには、語順の点で和語にはなじまない。あり得ない語形である。形容語が被形容語の後ろに来る例は和語にはひとつもない。動物や虫の名称としては「はだあか(肌赤)」はあり得るが、あくまで「肌が赤い(肌赤の)」獣や虫の名である。

 さらに「ハダアカ(肌赤)」説は、おそらく「あかはだか(赤裸)」「あかはぢをかく(赤恥)」「あかんぼう(赤坊)」などの「あか」表現、特に「あかはだか」と結びつけたものと思われるが、この「あか」を色彩の「赤」ととるには無理が感じられる。たしかに湯上りの肌は赤くなる、恥をかくと顔面が赤くなる。しかしこのことと「はだか(裸体)」「はだし(裸足)」とを無造作に同一視することはできないであろう。

 一方「あか(赤)」であるが、これはあまりに身近な語で、今さら検討する気も起らないであろうが、実はこれはア接語「あ(接頭語)+か(赤)」と見られ、赤色の本来語は一拍語「か」であった。それは「まか/まっか(真赤)」の「か」で今日に残っている。「あか」の「あ」が落ちたものではない。このことをきちんと証明する方法はないが、類例として「足」は「あ(接頭語)+し(足)」、「網」は「あ(接頭語)+み(箕*網)」という接頭語「あ」をとった語(ア接語)であることをもって妥当であろうと考える。


1)-2「はだあし(肌足・膚足)」説の無理。
 
 では「はだ(肌)+あし(足)」説はどうか。これまた「肌足」では”肌色の足(脚)”ほどの意にしかならず、これを”跣*裸足”とするのは明らかに無理である。しかも「はだ」について、「はだか」の場合は”赤い肌”の意とし、「はだし」の場合は”肌色”の意とするなど両者を恣意に解釈している。また何ら説明なく、「し」に「あ」をつけて「あし」を作っているのは行き過ぎである。ただ、足の本来形は一拍語「し」であり、それが接頭語「あ」をとって「あし」と長語化したことは、おそらく江戸時代や明治時代には知られていなかったであろうが、間違いはない。このとき注意したいのは「はだし」は、現代人の感覚では履物を履いていない”あしさき、あしうら”の意であるが、「し」「あし」は、あくまで足の細長い部分、つまり膝から足首までの脚絆を巻く部分の謂いであることである。足のように細長い物を言う一拍語「し」については本サイトの各所で触れているが、ほかに「かし(杭)」「くし(串)」「はし(柱/箸/嘴)」などがある。

 

2)「はだ」とは何か。
 
 さて、両者に共通する肝心の「はだ」であるが、両方ともこれを頭から「はだ(肌)」と決めて、そこから出発している。はたしてそうか。突然であるが、動詞図の中から関連すると思われる部分をとり出してみる。
 
は-はづ-はだく-はだかる-
        -はだける-
    -はづす-はづさす-

        -はづさる-
        -はづせる-
    -はづる-はづれる-
へ-へづ-へだつ-へだたる-
        -へだてる-
ほ-ほづ-ほどく-ほどかる-
        -ほどける-
 
 これで見ると子音コンビ(hd)が”物と物を引き離す、引っ剥がす、距離をとる”と言った意味を表わしていることに気づく。そうとすれば「はだか」「はだし」の「はだ」も、二拍動詞「はづ」の名詞形と考えて、”はだける(開)”意の二拍名詞と考えられる。「はだか」の「はだ」について、「肌」以外に考え得る唯一の解釈は、二拍動詞「はづ(はだける、はづす、ほどける)」の名詞形「はだ」である。

 

 名詞「はだ(肌)」は、いつの頃からか皮膚の意の和語の位置に坐っているが、皮膚は本来の和語はやはり「かは(皮)」であろう。これは筆者の推測であるが、「はだ(肌)」は、「はだか」「はだし」の語が現在の意味で定着してのち、人々が「はだ」は皮膚の意と誤解して、「はだ」が「かは(皮)」にとって代わって皮膚の意になったのではないかと思われる。ちなみに日国の「はだ」の語源説欄には注目すべき説は見られない。
 
3)-1「はだか」とは何か。
 
 上に述べたところから、「はだか」は、「はだ+か」で、意味するところは「はだけた”か”」としか考えられない。では「か」とは何か。この「か」こそが「體(からだ)」を言う原初の一拍語であったと考えられる。この「か」が接尾語「ら」をとって「から(柄)」と長語化したが、これは今日も「おおがら」「こがら」「みがら」などとして残っている。この「から」がさらに接尾語「だ」をとって「からだ(體)」となった。ただ「だ」については、残念ながら、詳しいことは分からない。

 

3)-2「はだし」とは何か。
 
 「はだし」の方はもう自明であろう。「はだけたあし」で、皮革や脚絆などをつけていない剥き出しの「あし(脚)」となる。一拍語「し」が”あしうら”の意でないことは、この時代は履物を履かない裸足が当たり前の時代で、それをわざわざ「はだし(裸足)」と名づける必要がなかった。一方「し(脚)」の方は、すね当てのようなものを着けることがあり、それを着けない脚を「はだし」と区別して呼んだと考えることにより納得できるであろう。

 

4)「あかはだか」「あかはぢ」「あかんぼう」考:

 

 「あかはだか」の場合は、明らかに「はだか」の語が成立してから後の語であり、「赤い肌」はなく、「あか(開)」と考えるのが妥当である。意味としては、表現が難しいが、「開かれた場での」「あからさまの」裸だということである。「あかはぢ」は、「赤い恥」などあるべくもなく、おそらく、多くの人がいる公開の場でかかされた恥の意であり、「あかんぼう」は、これまた「赤い子」ではなく、母体から「分かれ」出たばかりの子の意であるであろう。「あかの他人」となれば、もう多言を要しないが、「赤い他人」こそあり得べくもないことで、これは、誰が見ても明らかな、自分とは分たれた、あからさまな他人の意である。

 

 以上で通用の「はだあか(肌赤)」「はだあし(肌足)」説の無理が説明されたと考える。完。