この国に「yiね/しね/よね(稲*米)」が到来するまで「わは粟」は、「ひye稗」や「きび/きみ黍」とともに、主要な穀物であったとされている。このうち「あは」には「あはいひ粟飯、あはかゆ粟粥、あはざけ粟酒;うるあは粳粟、もちあは糯粟」などの成語が残されている。主食と言えば、今日では米飯しか頭に浮かばないが、それはせいぜいここ二千年のことで、その前には長い長い「あは」「ひye」「きび」食の時代があった。「あはいひ粟飯」はよく分からないが、「あは」と「いひ(飯)」は(&h)縁語である可能性が高い。即ち「あは」「いひ」は、ともに粟という穀物を指したか、「いひ」は「あは」の類似の穀物を指したか、「あは」の加工品を指したか、何らかの関係があったと見られる。「いひ飯」には「いひうら飯占、いひかみ飯嚼、いひね飯根、いひぼ飯粒、いひwuゑ飯飢」などの成句が残されている。
さらにもう一歩踏み込んで、「いひ」には複合語「おほひ大飯、かれひ乾飯*餉、ほしひ糒、もちひ餅飯」などがあり、「あ」「い」は接頭語と見られ、本来一拍語「は/ひ」であったであろう。
ところで、ここで神や貴人、旅人などを饗応する意の二拍動詞「あふ(饗ふ)」が視野に入ってくる。「あふ」は、名詞形「あひ/あへ(饗)」の形でより広く使われてきた。収穫の感謝のため田の神を家に招き入れてご馳走する「あひのこと/あへのこと」は、能登の旧家で今日も毎年12月に行われているという。これは都で行われていた神に新穀を捧げる「おほあへ大饗」「にひあへ新饗」行事の大もとであろう。また道の要所で疫病神や悪霊が入り込まないようにご馳走を供する「ちあへ/ちあへのまつり道饗祭」などがある。
「あは」「あふ-あへ」「いひ」の語の由来は不詳である。「ひye」も分からない。だが、縁語概念に沿って、「あ/い」は接頭語で、「は/ひ/ふ」が実質的な有意の語、そこから二拍動詞「はむ(食む)」が出てきたと考えると一貫する。「h」縁語群である。