和語の五拍動詞「かんがふる/かんがへる」とはどういうことか、どうすることか、この語の成り立ちはどうなっているのか。哲学の問いではなく、語学の問題である。それは、意識をあちこちに差し向けて、ものごとに「かまふ」「かまける」ことのようである。それらを比較商量することである。「かんがみる」も同様である。下の動詞図を参照することによってそう思われる。
--
か( )-かぶ(構ぶ)-かばふ(庇ばふ)(「あばふ」「たばふ」の形もあるが不詳)
-かむ(構む)-かまく(構まく)-かまける
-かます(構ます)-かまさる-かまされる「(一発)かます」
-かませる
-かまふ(構まふ)-かまはる-かまはれる
-かまへる「みがまへる身構」
-かむく(構むく)-かむかふ-かむかふる
-かむかへる「かんがへる考」
-かむかぶ
-かむかむ-かむかみる「かんがみる鑑」
き( )
く( )-くふ(組ふ)「すくふ巣構」
-くぶ(組ぶ)-くばす(配ばす)-くばせる「めくばせ目配」
-くばる(配ばる)-くばらす-くばらせる
-くばらる-くばられる
-くむ(組む)-くます(組ます)-くませる-くませらる-くませられる
-くまふ(組まふ)
-くまる(組まる)-くまれる「みくまり水配」
-くみす(組みす)
-くる(組る)-くらぶ(比らぶ)-くらべる-くらべらる-くらべられる(比較する)
-くらむ(比らむ)
け( )
こ( )
ア接:あぐむ(ア組む)
タ接:たくらむ(企む)
メ接:めぐむ恵(め+くむ配)-めぐます/めぐまる-めぐませる/めぐまれる(「め」は「目」か)
--
この図を描くことによってはじめて「考へる」という語の正体が見えて来たと言えるであろう。この図には誤りがあるかも知れず、ほかにこの図に入るべき語はいくつかあるであろう。だがここまででも全体として無理がなく、少なくとも筆者にはごく自然に感じられる。
二拍動詞「かむ」は、今日ではそのまま使われることは少なく「かまふ/かばふ」の次世代形で多用される。心を致す意である。それと同列でほとんど同意の「かむく」から後世形として「かんがへる」「かんがみる」がハネ出している。「くむ」の方は、「組む」と漢字表現されて具体的な家や足場を組み上げる意から、予定を組むなどと使われる。最近ではおそらく「プログラムを組む」ことが多いであろうが、これなどはまさに「くむ」の本来の意味に戻った見事な使い方のように思われる。
ここで「くらぶ-くらべる」が出現したのは驚きであった。「くる(組る)」が想定できなかったからである。二拍動詞「組る」は、当時は存在したが、他に「なる(並る)-ならぶ」などいくつかの例があるように、今日には残らなかった。これが他の縁語群に行く可能性はない。「考へる」と「比べる」は互いにもたれ合っていると言えるであろう。合わせて考える必要がある。
この五拍語「かんがへる」が日本書紀に現われるが、これは書紀が登場した八世紀初頭にこの語が存在したということにはならない。後の世になって然るべき文字(漢字)に「かむがふ-かむがふる/かむがへる」の読みが当てられるようになったということであろう。
「かんがへる」にはいろいろ考えさせられる。完