和人は死なず、ただ行くのみ。和語に「し(死)」はなく、ただ将来に向かって「行く」ことあるのみ。などとなかなか勇ましい標語が並んだが、これはその通りであって、和人は「し死」を知らなかった。
二拍動詞「しぬ(死ぬ)」は、本来の和語ではなく、「しぬ」は「yiぬ(往ぬ、去ぬ・・)」の(y-s)相通語なのである。「しぬ」に縁語がないことがそのことを傍証している。「yiぬ」は今でも往時の中央語である関西弁で多様にかつ盛大に使われている。ヤ行語がサ行語に転じた例は少なくなく、例えば「や矢→さ矢、yiね稲→しね稲、ye兄→せ兄」などがある。これによって「yiぬ→しぬ」相通は容易に理解されるであろう。
「yiく」とその一部の縁語の動詞図を書けば次のようになるであろう。
--
や(遣)-やる(遣る)-やらす(遣らす)-やらせる
-やらふ(遣らふ)
-やらる(遣らる)-やられる「僻地に遣られる」
yi(往)-yiく(往く)-yiかす(往かす)-yiかせる
-yiかる(往かる)-yiかれる「さきに逝かれる」
-yiぬ(去ぬ)-yiなす(去なす)-yiなせる
--
し(死)-しぬ(死ぬ)-しなす(死なす)-しなせる
-しなる(死なる)-しなれる
--
ゆ(往)-ゆく(往く)-ゆかす(往かす)-ゆかせる
-ゆかる(往かる)
オ接:おゆ(老ゆ)-おyiる(老いる)「おyi老」
-およす(老よす)-およすぐ
--
いつ頃からか「yiぬ」は家に”帰る”ほどに軽くなり、「しぬ」が「死ぬ」に特化して今日に至ったと考えられる。一拍語「し死」に相当するような「yi(往*逝)」が存在して使われていたかどうかは分からない。この「し死」は、おそらく仏教用語として、仏教によって深められたものであろう。
ここで注目すべきはオ接語「おゆ老」である。「おゆ」とは「ゆく(往く)」「yiく(逝く)」ことだったのである。和語の際立った体系性がここにも現われている。
完