「がんばる」とは何か  (67)

 昨今「がんばって!」「がんばりま~す!」と「がんばる」という語を目や耳にしない日はない。昨年は風水害が多く気の毒な被災者には”がんばれ”の声がかけられる。来たるべきオリンピックで金メダルを狙う勇者にも”がんばれ”の声が飛べば、難関に立ち向かう受験生にも”がんばれ”と励ましの声が寄せられる。このように「がんばる-がんばれ」はどのような立場の人に対しても”諦めるな、力を尽くせ”と励ます言葉のようである。自らを鼓舞するときも”がんばろう!”と拳を振り上げる。

 

 「がんばる」には「頑張る」と漢字が当てられるのが常である。しかし「がんばる」は、その語形や意味や使われ方から見てれっきとした和語である。漢字語ではなく、もちろん漢語ではない。

 

 日国によれば、「がんばる」は近世語で、18世紀末から浄瑠璃や歌舞伎の台本に現われるようになった。当初は「がん」には「眼」の字が当てられ、その意味(目)が意識されていたとのことである。登場当時は『たしかめて覚えておく。目をつけておく。ねらう』の意の由で、次の用例が上がっている。

 

*「目が見えずば声を眼ばって置いて下んせ」
*「さっきに跡の松原でがんばって置いた金の蔓」
*「昨夜(ゆふべ)からの働きは、昼の内から頑張(ガンバ)って、十七八の振り袖は〈略〉娘押へて取って来た」
*「『頭、金の在所(ありか)を』『頑張って置かっしゃったか』」

 

 その後、「目を大きく見開いて、物を見据える」「見張りをする」「頑強に座を占める」などの意味の時代を経て、ついに今日の「困難に屈せず、努力しつづける。忍耐してやりとおす」意が現われるのであるが、この意味で使われるのは、何と、終戦後であるという。ここ七十年ほどのことである。

 

 引用が長くなったが、最後に日国の「がんばる」の補注には『「眼張る」から出た語と考えられるが、「頑張る」は、「我張る」「我に張る」から変化したものという説もある』とある。

 

 果たしてそうか。「がんばる」とは何か。私としては、次のように考える。

 

 いきなり細かい語学になって恐縮であるが、「がんばる」は、少なくない類例によって、「がばる」の強調形と見られる。「とんがる」が「とがる」の強調形であるのと軌を一にする。「しんどい」が「しどけない」の「しど」の強調形であるのも同様である。次に「がばる」の語頭の濁音拍は、この語が新しい時代のものであることを示しているので、もとの清音拍に戻して「かばる/かまる」が得られる。「かばる」は他の多くの例から見て「かまる」の(m-b)相通形である。「かまる」が先にあって、それが「かばる」に相通語化したものである。この「かまる/かばる」がここでの検討の対象となる。

 

 そこで手持ちの動詞図の中から同じ(km)語である下記の「かまる/かばる」を見出すことが出来た。図には確かに「かまる/かばる」が書き込まれているが、これが果たして「がんばる」と繋がるのかどうか、つまり「がんばる」の前世代語と言えるのかどうかが問題である。

 

--
か( )-かむ(構む)-かまく(感まく)-かまける
           -かます(構ます)-かまさる-かまされる「(一発)かます」
                    -かませる
           -かまふ(構まふ)-かまはる-かまはれる
                    -かまへる-かまへらる-かまへられる「みがまへる身構」
           -かまる(構まる)●「がんばる」
           -かむく(感むく)-かむかふ-かむかふる
                         -かむかへる「かんがへる(考える)」
                    -かむかぶ
                    -かむかむ-かむかみる「かんがみる(鑑みる)」
    -かぶ(構ぶ)-かばふ(庇ばふ)(「あばふ」「たばふ」の形もあるが不詳)
           -かばる(構ばる)●「がんばる」

く( )-くふ(組ふ)「すくふ(巣構ふ)」
    -くぶ(組ぶ)-くばす(配ばす)-くばせる「めくばせ(目配)」

           -くばる(配ばる)-くばらす-くばらせる
                    -くばらる-くばられる
    -くむ(組む)-くます(組ます)-くませる-くませらる-くませられる
           -くまふ(組まふ)
           -くまる(組まる)-くまれる「みくまり(水配)」
           -くみす(与みす)
    -くる(組る)-くらぶ(比らぶ)-くらべる-くらべらる-くらべられる
           -くらむ(比らむ)
--

 

 まず図中の漢字表記はあくまで参考程度で、これに捉われないでいただきたい。上記の動詞語群全体に通底する謂いは、”あることに心を致す、心が捉われる”といったことであろう。例えば「かまく-かまける」であるが、これは”些事に「かまけ」て大事をおろそかにする”といった使い方をされるが、もう少し積極的に心を致すとお節介にも似た「かまふ」となり、さらにたとえ極悪人であってもすべてを察して「かばふ」ところまで行く。

 

 「かまる/かばる」がこうした対象との間合いの中のどこに来るかはともかく、またどのような用例があるかはともかく、(km)縁語のひとつとして、これも上記のような意味をもっていると考えられる。

 

 ここで注目すべきは図中に「かむかふ-かむかへる(考える)」が入っていることである。さらに語群全体を眺めて気づくことは、これらは身体的な活動や努力を言う語ではなく、あくまで「気」や「心」に関わる語群であるということである。「くむ(組む)」は、足場を築くのではなく、気を配る意である。「くばる」のが気であれば、「くばす」のは視線であり(目くばせ)、「くみす(与す)」のは心である。「くらぶ-くらべる」のも物の重さではなく、目で見て、或いは心の中で比較商量することである。秤に乗らないものを「くらべる」のである。

 

 ここまで来ればはっきりするが、「がんばる」は、目標に向かって身体的に汗をかいて達成を試みるということではなく、「かんがへる」ことであるであろう。「がんばれ!」とは、本来は、”しっかり考えよ、必死になって心を働かせ!”ということになると思われる。完