「こども(子ども、子供)」とは何か(一) (68)

 「こども」の語釈が定まっていないのをご存じだろうか。試みに大きな図書館の蔵する国語辞典を片端から引いて見ると分かるのであるが、てんでんばらばらである。その原因は言うまでもなく「こ(子)+ども」の「ども」の存在である。「こ(子)」の方は「おやこ(親子)」とあるところから比較的よく分るのに対し、「ども/とも」は、これだけでは見当がつかない。「とも」を冒頭で”複数を意味する接尾語”と宣言する辞書には二重複数とでも言うべき「こどもたち」への言及はない。

 

 たしかに「とも」はいつの頃からか”複数を意味する接尾語”となって、万葉集にも「いざ子ども早くやまとへ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ(m63)」などと現われる。言葉は変わるものなので、後には「ものども、野郎ども」と乱暴にも使われれば、「私ども」と謙遜語になったりもする。

 

 ところで「子ども」の「ども」であるが、私は「たみ」「つま」「とも」の(tm)縁語三語が「血縁のない仲間」の意であることは別に述べた。これによっていくつかの懸案に解決の道が見えて来たのでのである。例えば夫と妻が互いに相手を「つま」と呼ぶことの不思議さもこれですっきり解消された。ここでは「子ども」の意味について考える。

 

 結論から先に言えば、「こども」の「とも」は、複数を示す語尾ではなく、「とも(伴*友)」や「ともだち」の「とも」なのである。仲間と言い換えてもよい。つまり「こども」とは、自分の生活圏内(集落)における同年配の「とも」ではなく、年上の「とも」でもなく、集団として運命を共にするが血縁のない一人の「子なるとも」の意なのである。小さな仲間である。これが複数になれば”複数を意味する接尾語”「たち」をとって「子どもたち」となる。

 

 これで分かるように、親が最も濃密な血縁者である自分の子を指して「私の子ども」とは言えないのである。自分の子は「私の子」「私の子たち」である。「私のこども」とは、村の広場で遊んでいる一人の顔見知りのよその「こ(子)」のことである。仲間と見なす一人の「子なるとも」のことである。そこで、もう明らかなように、そうした「こども」の複数形が「こどもたち」である。自分が属する集落が抱えている「こ(子)」の集団である。

 

 ちなみに「たみ(民)」は、これは先史・古代の話であるので、一億人の国民というわけにはいかず、ひとつの村や集落の住民のことで、数十人とか、精々数百人の規模の人のことを言うであろう。完