「おほかみ(大神*狼)」と「ゐぬ/ゑぬ(犬)」 (79)

 この列島に来た「ひと」は先住のいろいろな生き物に名前をつけた。

 

 今は絶滅したとされる野獣の”狼”は、「おほかみ(大神)」の名前が示すように獣としての本来の名前ではなく、明らかにあだ名である。その威容や凶暴さによって、本来あったであろう名前は記紀の時代には既に忘れられ、”大神”なるあだ名がついて、それに”犲”や”狼”の漢字が当てられて一人歩きをしている状況と思われる。何と言う和語に”犲*狼”の漢字が当てられたか、今は知る由もない。

 

 ところで狼は別名で「やまいぬ(山犬)」と呼ばれていたという。犬は狼が家畜化されたものであることはよく知られている。また犬の遺骸が少なからぬ縄文遺跡から、埋葬された形で出土するということである。ということは和人は縄文時代から犬を家畜として暮らしていたということであり、今日までわれわれは実に縄文の伝統を受け継いでいると言えよう。

 

 ところで、”犬”の用例や古語辞書による限り、”犬”の平仮名書きはどれもア行語の「いぬ」である。万葉集に四回登場する”犬”は、原文ではそれぞれ「伊奴、犬、狗、犬」と表記されている。その後の万葉集の注釈書類で、理由は不明であるが、それらはすべてア行語の「いぬ」と平仮名書きされてきたらしい。”犬”を平仮名で「いぬ」と表記してどこからも疑問が呈されている様子はない。

 

 というのは「いぬ」は、古くはこの語形はあり得ないからである。「いぬ」は、(1)イ接語「い+ぬ(犬)」か、(2)「yiぬ」、(3)「ゐぬ」の転か、でなければならないのである。細々しい議論はおいて、結論から言えばこれは「ゐぬ」以外にない。平安時代につくられた辞書である和名抄や色葉字類抄には”犬の子”の意味で「ゑぬ」が登録されていることからも、”犬”は「ゐぬ」或いは「ゑぬ」と平仮名書きされなければならなかった。

 

 ”犬”が「ゐぬ」であるもうひとつの理由はその鳴き声の「わんわん」である。鳴き声に注目した説は日国の語源説欄にも『鳴声か。ワンワンのワがイに転じたか〔大言海〕。鳴声ウエヌの転〔松屋叢考〕』と見える。だが「わんわん」の意味はもっと深い。

 ここで「わんわん」が含まれる子音コンビ(wn)縁語群を探してみると次のようになるであろう。

 

わぬ:わなわな、わななく、わんわん
ゐぬ:ゐぬ(犬)
wuぬ:wuなる(唸る)
ゑぬ:ゑぬ(犬)、ゑのこ、ゑのころ
をぬ:をののく、をんをん(泣く)

 

 これを見る限りア行語「いぬ」がないことは明らかである。”犬”は(wn)縁語群の中にあったのである。さらに想像をたくましくすれば「ゐぬ/ゑぬ」は、単に犬を指すのみならず、今は失われた「おほかみ(大神*狼)」の本名ではないかと考えられる。「わなわな(と震える)、わななく、をののく」はまさに森の中でふいに狼と出くわしたときの恐怖を物語るものであるであろう。「wuなる(唸る)」は狼や犬の唸り以外の何物でもない。

 

 なお上記の(wn)縁語群と「わめく、wuめく、をめく(喚く)」との関連は別に論じる。本稿の趣旨に影響するところはない。完