「たましひ(魂)」の謎 (106)

 われわれの言葉の中でもっとも謎多い語のひとつが「たましひ」である。この語は、大きく分けて、例えば「たましひが抜ける、たましひを入れかえる、たましひを冷やす、たましひを揺すぶられる」などと使われるが、これは身体の中のどこかにに抱えている玉型の「たましひ」なる物のようであり、「やまとだましひ(大和魂)、職人だましひ、武士のたましひ(刀)」などでは無形の”心意気”であるであろう。意味するところもいろいろであれば、この語自体がさっぱり分からない。諸辞書は、この語自体には触れず、さまざまな用例から「たましひ」の意味すると思われるところを抽出して開陳している。

 

 そこで言葉そのものに戻って考えるとどういうことになるか。「たましひ」は「たま+しひ」である。これ以外は考えにくい。そこで問題は「たま」とは何か、「しひ」とは何か、両方を合わせるとどうなるか、ということである。

 

 前項の「たま」は後に回して、後項の「しひ」であるが、差し当たりこれは二拍動詞「しふ(癈ふ)」の名詞形である。この「しふ」は人間の感覚が機能しなくなることを言い、「みみしひ(耳癈*聾)、めしひ(目癈*盲)」の語が知られている。二拍動詞「しふ」にはもうひとつ強制する意の「しふ(強ふ)-しひる」がある。これは現代語でもあるが明らかに別語であり、ここには適切ではない。むしろ同じ(sh)語の妨げる意の「さふ(障ふ)-さはる」が近く、これは「しふ」の縁語と見ることができるかも知れない。最後に「しひ」には「しひの木ばやし」の名詞「しひ(椎)」があるがこれも関係ない。結局「しひ」については当面「しひ(癈ひ)」に絞って考えていくほかない。

 

 因みに日国の「たましひ(魂*魄)」の語源説欄には13説が挙がっているが見るべきものはない。「たま」は一二を除いて「玉」との見立てであり、「しひ」は、すべて「癈ひ」を無視して、さまざまに思いめぐらせている。もっとも分かりやすいのは『タマは玉で貴重の義、シヒは霊の義〔日本釈名〕』と「玉垣」や「玉江」と同じ構造と見るものであるが、「しひ」に「霊」の意味はない。捏造である。「しひ」を「し+ひ」とふたつに分けて論じているものもあるが、これも無理筋である。

 

 「たましひ(魂)」の「たま」は、日本人ならだれもがまず”玉”を思い浮かべる。”たま(玉)”は、今日言うところの”ボール”である。球体である。「あたま(頭)、めだま(目玉)、たまご(玉子)」の「たま」である。この「たま」は、別項でも指摘しているように、語の構成は「た(接頭語)+ま(丸)」で複合語である。”丸い”ことの意味は後項の「ま(丸)」にある。前項の「た」は、一拍語「ま」を安定させるためのおそらくほとんど無意味の接頭語である。ということは、「たま」は、一拍語「ま」が長い時代を経て長語化した後の語ということになる。「たま」がいつごろ成立したかは不明である。

 

 この「たま」に今日漢字の”魂”を当てて、「たましひ」によく似た意味を預けている。「ひとだま(人魂*人玉)」が代表であるが、夜の墓場で尾を引きながら飛ぶという青い火の玉である。これは、単に”球体”をいう「たま」に対して、和人が長い時間をかけていつか漢語で言う”魂*霊魂*魂魄”のような意を付与したのであろう。「たま」にはほかに「さきたま幸魂、いきすだま生霊、にきたま和魂」などがある。

 

 ところで、上記の「たま」は本当に”玉、球体”のことなのか。タ接語「た+ま」のほかに本来の二拍語「たま」はないのだろうか。諸辞書が示唆するのは「おやだま(親玉)」に代表される”ひと(人)”である。ほかに「あらたま(荒魂)、かへだま(替玉)、にきたま(和魂)」など、また和語とは言えないが「悪玉、善玉、上玉」などがあげられている。”あいつはいい玉だ”というのもそれである。諸辞書は、これらの”人”は「たま(玉)」がもつさまざまな意味のひとつとしている。だがここで指摘されている”人”の意味の「たま」は、”玉”とは別の独立した語ととることはできないか。複合語ならぬ単語の「たま」である。そこで思い当たるのが「たみ(民)、つま(夫*妻)、とも(友)」の(tm)縁語のひとつではないかということである。「たま、たみ、つま、とも」である。もともと”人”を言う「たま」なる二拍語が存在したが、後に出現した「たま(玉)」という同音別語が勢力を得て「たま(人)」を飲み込んでしまったという図である。従来の「たみ、つま、とも」については、筆者は「つま」に注目して”血縁なき仲間”と規定しているが、もし「たま」が入ってくると見直しが必要かも知れない。

 

 では「たま」が”人”であるとして、「たましひ」や「ひとだま」はどうなるか。もちろんぴったりの「たま=ひと」ではない。そこが考えどころとなる。前述の「みみしひ(耳癈*聾)、めしひ(目癈*盲)」から見ると、これらは”ひと(人)”なる本体とは別に、それに付随している「耳、聴力」や「目、視力」が機能を失っていることやその人を言っている。ということは「たま」とは「ひと」がもっている”生命力”ということで、「たましひ」とは”生命力が機能しない”人ということになる。このとき、生命力を失った「ひと」は死体である(死んでいる)が、「たま」は「たましひ」となって存在している(生きている)ことになる。この「たましひ」が一人歩きするようになって、さまざまに解釈されさまざまな意味が付与されることになった。

 

 「ひとだま」は、おそらく「人玉」で、これはずっと後の複合語(「た+ま」)の時代の語であると考えることによって当面の困難は回避される。

-- 

 なお次のように”人”を言うタ行渡り語「た/つ/と(人)」が成立すると思われる。

た:たま(人*玉)、たみ(民)
ち:
つ:つま(夫*妻)
て:
と:ひと(人)、とも(友*伴)

--