上記の和語動詞図について、読者諸兄姉におかれてはどのようにご覧になったであろうか。これはもちろん完成図ではなく、筆者(足立)には当然のことながら言い訳をしたいことが山ほどあるのである。ひとつひとつの項目ごとに弁解がある。だがそれをいちいち書いているときりがないのでここはこのままご高覧に供することとした。ただ、図中の深刻な錯誤は後回しとして、不注意による単純な誤りや見落としも少なくないと思われ、この点についてはここでお詫びするとともに、それらの修正を含め随時追加訂正していく所存である。
動詞図は、国語辞典から動詞をとり出し、それをただ並べ替えて得られたものである。従ってこれは作りもののようであって、作りものではない。虚構とは言えないのである。問題は果たしてこれに意味があるのかどうかである。あるとすればどんな意味か。それ以上の問題は、これは私という関西弁が基盤の平均的な一日本人の個人的な日本語感覚にもとづいて作られていることである。さまざまな点で日本人ひとりひとりに異論があるであろうし、この図以外にもっと別の並べ方があるであろうことである。特に区切り線から区切り線までのひとつの縁語グループの作り方に意見が多いと思われる。各自でさまざまな図表化を試みることによって日本語の深淵をのぞくことになるであろう。将来的には、そうした多くの意見を総合した国民的な図を見たいものである。
筆者は、動詞図は和語を把握する、或いは理解する上でもっとも基本的な図であるであろうと思っている。この図を見て和語の体系性の高さに打たれるのである。五十音図と言い、それにもとづく動詞図と言い、ここまできっちりと体系化されていることに驚かされるのである。和語は、あたかも司令塔からの指示にもとづいて展開しているかのようである。或いは民族の総意といったうねりがあるのかも知れない。
この図を見て気づくことの第一は、個々の和語(動詞)のベクトルは、一方は一拍語の方向を指し、もう一方は将来の長語化の方向を指しており、この時点ではこの姿でこの場所に留まっているという事実である。将来的に実際にこれより長くなるのかどうかはわからない。
この動詞図は五十音図の世界に縛られている。五十音図があってはじめて動詞図がある。動詞図を考える上で五十音図が決定的に重要である。それはそれでいいとして、ここで五十音図にこだわるとにっちもさっちも身動きがとれなくなる。行き止まりである。五十音図はいつどこで生まれたのか、五十音図の前の和語の姿はどのようなものであったか。此の点を突破しないことには新しい国語学はないことになるが、難しい。
なお動詞図と並んで当然のことながら同じ和語の原理の上に立つ名詞図が得られるが、こちらは動詞図ほどきれいに表現されないので、これは別にとり上げる。動詞図と名詞図を合体することにより新しい国語辞典が生まれることになる。五十音図順によらない和語の意味体系に沿った形の辞書の誕生が予想される。和語名詞も、本章の「はじめに」で紹介したように、動詞と同じく単独で存在することは少なく、あいうえおの五段にわたって渡り語(縁語群)を構成している。これをとりまとめた名詞図もそれなりに新しい和語の見方を開いてくれるであろう。両者を組み合わせた形の縁語群ベースの国語辞典である。
「動詞図+名詞図」の将来的な姿であるが、筆者の予想では、子音にもとづく縁語群の数はさほど多くはなく、現在のところ縁語が見つからず孤立している多くの動詞や名詞も探索が進むことによって、やがて既知の縁語群に吸収されていくなり、孤立語どうしで新しい縁語群を作るなりして、まとまっていくのではないか、というものである。言い換えれば、「動詞図+名詞図」はこれ以上散開することなく、縁語群の数としてはコンパクトにまとまっていくであろうというものである。
最後に動詞図が外国人に対する日本語教育に役立つことを指摘したい。動詞図のみならず、和語の原理をとり入れることによって日本語教科書が様変わりすることになるであろう。日本語学習者の中でも、日本語の実用を急がず、語学として取り組んでいる人たちには特に有効と思われる。その際注意すべきは、日本語をここで示した本仮名によって記述することである。この点を外しては意味がなくなる。日本語の大きな枠組みの理解は、本仮名にもとづく動詞図や縁語グループの解説によるのが効果的であろう。こうして日本語の枠組みの理解の上に立って、必要とあればいわゆる現代仮名遣いへの移行も、問題含みではあるが、進むものと思われる。
足立晋
完