幽霊語「い(寝)」

 はなはだ唐突であるが「いぎたない(寝穢い)」という言葉がある。子供のころ寝ざめに親からそう言われた覚えのある人もいるであろう、「もう、お前はいぎたないんだから(早く起きなさい)」。これは「寝相が悪い」ということではなく、”いつまでも枕にしがみついている、何度起こしても起きてこない”の意である。このことは日本人であれば何となく分かる。だがこの場合は「い+きたない」の「い」が反応したのではなく、子供は、後項の「きたない」の方が”汚れている、不潔である”の意味ではなく、「金にきたない」と同じような”執着心が強い”という意味であることを理解して、”ぐずぐずしなさんな”と叱られたことが分かったと考えられる。

 

 ところでここでの問題は「きたない」ではなく、前項の「い」である。「いぎたない(い+きたなし)」の「い」とは何か。この語は、上代語であり、以来時代を経て意味するところが変わったところがあるかもしれないが、本来は上記のように「眠り」の意とされている。「眠り+きたなし(穢)」である。それを支える例語に「あさい(朝寝)、うまい(味寝)、ながい(長寝)、やすい(安寝)、よい(夜寝)」などが知られている。この「い」が「寝」であることに疑いの余地はない。

 

 ただし文章中での「い」の使われ方には日本語らしからぬ独特なものがある。代表とされるものが「いをぬ」であり、字義通りに「い(寝)をぬ(寝)」で、”眠りを眠る”である。これには古事記や万葉集などに「い(寝)はな(寝)さむを」「い(寝)をしな(寝)せ」「い(寝)をね(寝)ず居れば」「い(寝)をね(寝)らえぬ」「い(寝)こそ寝(ね)られね」などの形で用例があり、いずれも「いをぬ」のバリエーションである。

 

 この一風変わった一拍語「い(寝)」は、和語であって和語ではない。と言うのは、本来の和語に「い(寝)」という語があったわけではなく、いわゆる上代語に数多くみられる接頭語「い」そのものなのである。接頭語「い」が一拍動詞「ぬ(寝)」について「い(接頭語)+ぬ(寝)」と二拍動詞に長語化したものである。意味としてはもとの「ぬ(寝)」と変わりない。ただの「寝る、眠る」である。その「いぬ」が長く使われるうちにイ接動詞であることが忘れられ、語頭の「い」が「眠り」の意で、「ぬ」は単なる動詞語尾と理解されるに至ったと考えられる。その結果「い」が”眠り”の意で一人歩きを始めた。ところが和語体系の中で「い」なる語が”眠り”の意味をもつことは馴染まないと和人は心の中に何かひっかかるもを感じてきた。何より「い」のようなア行の一拍語はあり得ないのである。ワ行語の「ゐ」、或いはヤ行語の「yi」であればいろいろ意味するところが考えられるが、ア行の「い」はあってはならないのであって、言わば幽霊である。おそらくそのせいで上記のような「い(寝)」に対する特別待遇が行われるようになったと思われるのである。

 

 古語で接頭語「い」をとる動詞は数多く知られている。一部を示せば次のようである。

 

 一拍動詞:いく生 いづ出 いぬ寝 いゆ癒

 二拍動詞:いかく懸 いかく掻 いかる刈 いかる離 いきる切 いくむ組 いこぐ漕

      いこず掘 いしく及 いそふ添 いたく手 いたつ立 いたむ廻 いつぐ次

      いとる取 いのる告 いはつ泊 いはつ果 いはふ匍 いふく吹 いふる触

      いまく巻 います坐 いむる群 いゆく行 いよる寄

 三拍動詞:いかくる隠 いかへる帰 いかよふ通 いこもる籠 いさかふ逆 いすくむ竦

      いそばふ戯 いたどる辿 いつがる繋 いつくす尽 いつもる積 いひらく開

      いひりふ拾 いむかふ向 いわかる別 いわたる渡

 

 これらイ接動詞について、諸辞書の解説は次のようである。

言海『動詞などの上に被らせて意なき発語。「い行く」「い坐(ま)す」「い向ふ」「い渡る」「い通ふ」「い触る」』

大言海『発語なり、少しも意味なし。多くは、動詞に冠す。「い積る」「い隠る」「い通ふ」「い向ふ」尚、甚だ多し』

日国『動詞について語調を整える。「い隠る」「い通ふ」「い寄る」「い渡る」など』

 

 要は「い」には意味はなく、語調を整えるだけ、と言うことのようである。だがイ接動詞のほかに接頭語「あ、う、お」をとる動詞も多くあり、これでは不十分である。この点については別にまとめて論じることとしたい。

 

 ここで注目されるのはやはり「いぬ(寝)」である。少なからぬイ接動詞の中でどうして「いぬ」だけに接頭語を実質語とする「い(寝)」が成立したのか目下のところは不明である。

 

 さきに二拍語「みづ(水)」は、和語本来の「つ(水)」が接頭語「み(御)」をとったミ接語「み(御)+づ(水)」であることを示したが、この「いぬ(寝)」についても長い間、おそらく千数百年、二千年の長きにわたって固定観念にとらわれたままわれわれは過ごしてきたと思われる。国語に対するさらなる反省を期している。足立晋