さきに本欄で触れた「やま(山)」についての疑問は、これは古代史の鍵を握る語のひとつである三拍語「やまと」を念頭においてのことであった。語学のサイトではあるが、「やまと」を抜きにして日本の古代史はない。
1)「やま(山)」をどう考えるか。
二拍語「やま」を「や+ま」と分けて考える道は、今のところ、ない。「やま」のままで引っかかるかも知れない語と言えば「やみ(闇)」しかない。だがその道は閉ざされた。
和語で”山”が二拍語「やま」となる前に、今は何か分からないが、一拍語の時代があった。それを仮に「や」としておく。「や」の時代が何千年か続いた後、おそらく長語化の結果として二拍語「やま」が成立し今日に至っている。”山”を言う新語「やま」が出現しとって代わった可能性はある。「やま」は、由来は不明であるが、”山”を指すことは明らかである。
2)地名「やまと」をどう考えるか。
三拍語「やまと」は、全体で一語であることはあり得ず、「やま+と」「や+まと」「や+ま+と」と分けて考えることになる。今のところ和語について知られているところを総合的に見て「やま+と」しかない。即ち「やま(山)+と」である。
では「やま+と」の「と」とは何か。一拍語「と」には「と門、と人、と音、と水、と土、と下、と所、と手」等々があり、順に当てはめて行ってもこれと決めることは難しい。そもそも語末に「と」をもつ二拍語、三拍語で「やまと」を考える上で参考になりそうな語にどのようなものがあるのか。手もとのリストを見ても、一拍語同様、これというものは見当たらない。実際、筆者の目にとまった限りの資料によっても、全国の「やまと」地名が洗い出され、「やま+と」が伝説や地形などを含めてひとつひとつ検討されているが、すっきりした結論には至っていない。同じく日国の「やまと大和」の語源説欄には11説が並んでいるが同様である。これは地名に限らず和語の各個撃破には限界があることを示していると思われる。たまたまうまく行くときはそれでいいが、基本的にはそれでは(方法論がなくては)無理であろう。
そこで和語の特徴である体系性の高さ目をつけて、縁語群をつくりそれを展開することにしてみたい。前記の”土石15語”を念頭に、「しま、ぬま、はま、やま」を前項としタ行渡り語を後項とする三拍語をつくって並べてみる。なお添付の漢字は考えるきっかけ作りに置いてみたまでである。
しまだ島田 しまぢ島地 しまづ島津 しまて島手 しまと島土
ぬまた沼田 ぬまち沼地 ぬまづ沼津 ぬまて沼手 ぬまと沼土
はまだ浜田 はまぢ浜地 はまつ浜津 はまて浜手 はまと浜土
やまだ山田 やまぢ山地 やまつ山津 やまて山手 やまと(山門、山都、倭、大和・・)
こうして見ると「やまと」は決して特別の語ではなく、これら大きな縁語群のひとつに過ぎないことが分かる。漠然と”山つづきの土地、山のあたり、山のそば”程度に考えおくほかなさそうである。「やまもと山本、をかもと岡本」と遠くないであろう。いつか「やまた/やまだ」は氏名に、「やまと」は地名に片寄るようになった。
(ここでは母音に関わるいわゆる上代特殊仮名遣は問題としていない。これについては別に述べる。)
3)「やまたい(邪馬台)」国はない。
言うところの「やまたい」国は、いつ頃だれが言い出し、どのような経緯で遍く広がることになったのかはつまびらかにしないが、こればかりは受け入れようがない。いつまでも「やまたい、やまたい」と言っている限り「やまたい」国はいつまでも闇の中にあるであろう。「邪馬台」は「やまと」である。仮に「やまた」であっても「やまたい」ではない。
理由は簡単で、「やまたい」という和語はないと言うに尽きる。では「邪馬台」を「やまと」と読むことができるのかという問いかけに対しては、そう読むほかないと乱暴に答えるほかない。細かい理屈は後づけで考えなければならないが、何しろ二千年前の魏の国辺りのシナ語や和人の漢字利用の歴史の解明が絡んでくるので大変である。だが「やまと」は譲れない。
女王卑弥呼が死んで後継に宗女「壹與(壱与)」を立てるが、これも「臺與(台与)」の誤りとされることが多い。このとき「臺與」を「たいよ」とは読まずだれも平気で「とよ」と読んでいる。そうということは、だれもが「邪馬臺」も「やまと」と読めること、そう読むことに抵抗がないこと、そう読むべきと思っているらしいことを示している。「やまたい」は惰性に過ぎないであろう。
(ここでは魏志倭人伝に関わる「壹・臺」問題などについては通行の解釈に従っている。)
4)「やまと(邪馬台)」はどこのことか。
最後に、余計なことであるが、この地名「やまと(邪馬台)」をどこに同定するかである。周知のように、九州島北部と紀伊半島北部の間には数十に及ぶ地名の一致ないし相似が指摘されている。これは明らかな事実として認めないわけにはいかない。その極めつきとして、「なら(奈良)」は、実は「な(奴)+ら(接尾語)」と考えられるのである。つまり「奈良は奴(な)の国」である。いつの間にか歴史の中に埋没し消滅したような奴国であるが、どっこい東の方紀伊半島において奈良と名前を変えて今日までしっかり生きていたのである。
この辺りの説明は長くなるのでここではおくが、それらのことから「やまと」は、「な」国と同じ筑紫平野南部にある八女川(矢部川)のほとり、ぞやま(女山)の麓に広がる「やまと(山門)」であろうと自ずから結論される。だがこの「やまと(山門)」は、倭人伝が書かれる前に、何らかの形で住民の主体部が紀伊半島に移って「やまと(大和)」と称した。倭人伝に言う「やまと(邪馬台)」国である。その昔、奴国も山門も、その他多くの村邑からも住民の一部が九州島から紀伊半島へ引越ししたと考えるほかない。壮大な東征であり東遷である。倭国大乱である。なお「やまと(山門)」については江戸時代中期の新井白石が最初に注目した由である。
ここで「やま+と」と「やめ(八女)」のふたつの(ym)語に関係があるかないかという深刻な問題がもちあがるが、今のところ見通しは立たない。
こうなると、語学の枠を越えて、自ずから魏志倭人伝の世界に入って行くことになるが、これについては場を改めて述べる。国語の検討から古代史への参入の余地は広い。
足立晋
完