2020/06/12
 前回、筆者(足立)は二拍語「はし(橋)」の由来について述べた。「はし」は、垂直に立っているものも横になって寝ているものも含めて”棒状のもの、棒”の意であり、そのことは「はし」を「は+し」と二つの一拍語に分けて、「は」と「し」が共に”細長いもの、棒状のもの”を意味することを示すことによって証することができたと思っている。後項の「し」が本来の”棒”で、「は」はそれをさらに規定するものと考えられる。  だがこれで終点と言えるのかどうか。和語は一拍語から始まり、やがて前後に接辞をとって二拍語、三拍語と長語化したという事実がある。特に動詞については動詞図を描くことによって長語化の過程を疑問の余地なく示すことができる。そうとすれば「はし」も一拍語「し」に戻らなければその由来を辿ったことにならないであろう。これはおそらくその通りであって、「はし(橋)」は「し」に発すると考えられる。今回は一拍語「し」に至る直接的な手がかりがないので控えたが、和語における語の由来探しは、草木の名前に見るような本来的な二拍語、三拍語を除いて、一拍語に到達して当面の目的を達したことになる。  ここで和語の一拍語についてどうしても気になることがある。それは音と意味との関係である。言葉における音と意味の間の関係は、言葉の原理として、ないと言うことになっている。だがそれは「ゐぬ(犬)」とか「ねこ(猫)」といった長い語の場合であって、和語の一拍語は、和語にたいへん数多い模写語の存在とあいまって、音が意味を表わしているところがあると考えざるを得ないのである。例えば「き、きー」「し、しー」「ぴ、ぴー」などある種のイ段の音がわれわれに緩くて丸いものを連想させることはないであろう。鋭くとがったものであり、緊張した状況である。上記の例で「し」が”棒”であると言うとき、この段階にまで踏み込まなければ由来の追及が終わったことにならないのかも知れない。  では一拍語の先はどうなっているのか。どのように考えればよいか。これは”和語の来た道”問題そのものである。和語は、アジア大陸のさまざまな土地から日本列島にやって来た人たちが列島内で交じり合い、その結果として彼らの言葉も交じり合って列島内で新しくつくり出された(形成された)ものと考えるほかない。和語に系統はない。和語は列島内で生れた独自言語であるであろう。もちろん鳥や草木の名前で大陸から持ち込まれたものが今後いくつか見つかることはあっても、それが系統問題に発展することはないと思われる。このことについては別に詳しく述べるつもりである。  和語を理解する上で『一拍語と長語化』はもっとも重要な切り口である。この点をイメージとして捉えると、下の図のようになると思われる。最下段の無人列島の時代から、最初の渡来人を迎え、一拍語の和語を生み、それを次第に長語化して語数を増やしていく様を表現している。図では四拍語まで表記してるが、今日では六拍語、七拍語も少なからず、漢語のほかに多数の外来語を加え、一億二千万人の話者をもつ地球上で最有力言語のひとつとなっている。   ----    ------    ------   -----   ------  |一拍語| + |  二拍語  | + | 三拍語 | + | 四拍語 | +|  漢語 |   ----    ------   ------   -----   ------    ------    ------    ------    -------    | 一拍語  | + |  二拍語  | + | 三拍語 | + | 漢語〔古音〕|    ------    ------    ------    -------        --------     -------    ------       |  一拍語   | + |  二拍語  | + | 三拍語  |        --------     -------    ------           ------------    ------          |    一拍語    | + |  二拍語  |(縄文時代~ ?           ------------    ------               --------------              |     一拍語     |(3万8千年前~旧石器時代~ ?               --------------       ---------------------------------                 (和語以前 -無人列島- )  上の図は、あくまで和語の生成から今日の姿に至るまでの変態(成長)の過程を荒々イメージしたものである。本図に対するさまざまなご意見を得て、より実態に即したものにしていく所存である。 完
2020/06/06
 今日「はし(橋)」と聞くとどのようなものを思い浮かべるのであろうか。子供であればおそらく劇画で見るような海や大河を渡る長大橋であろう。それともビルの谷間を走る複雑な高速道路か、陽に輝く巨大な吊り橋かも知れない。だがわれわれ和人の「はし」は一本の丸木橋から始まった。一群の人が野越え山越えやって来て川にぶつかると近くの立ち木を切り倒して枝を払い、それを対岸に渡してその上を渡って行ったに違いない。彼らはそれを「はし」と呼んだ。では「はし」とは何か。  こころみに国語辞典を見ると、上記の「はし(橋)」に関係すると思われる、或いは「はし」を含む語に次のようなものがある。 「はし(嘴、口嘴、火箸)」「はし(箸)」「はしご(梯)」「はしら(柱)」  これらはどれも共通して棒状のものを指していることが分かる。太いものも細いものもある。鳥の嘴や二本箸は言うまでもないが、「はしご」は、一本の柱に足を掛けるための切り込みを入れたもので、それを伝って高いところに登るのに用いられた。本来はやはり「はし」で、「きざはし(階)/きだはし」がそれに当たると見られている。「きざ」は「きだ」の後の時代の形で、「きざむ(刻む)」はもとは「きだ(段)」を切り込む意の「きだむ」であった。模写語「きだきだ/ぎざぎざ」が下敷きになっているであろう。「はしご」の「ご」は不明である。「はしら(柱)」は、「はし」を垂直に立てたものを指している。「はし」は単に細長い棒状のものを言う語で位置関係は問わないが、それが無意味な接尾語「ら」をとって地に立つ「柱」の意になった経緯は不詳である。とまれ川にかかる「はし(橋)」が上記の「はし」語群に属することは間違いないであろう。(hs)縁語群である。  ちなみに名勝「あまのはしだて(天橋立)」などの「はしだて」は書紀の用例によって”はしごを立てること、また立っているはしご”の意の由である。天橋立は近くの山からの眺めで遥か天へのぼる梯子と見なされたのであろう。  では二拍語「はし」が”棒状のもの、棒”を指す由縁は何か。「はし」を眺めていても一歩も進まない。そこで「はし」を「は+し」と分解し、一拍語「は」と「し」に戻して検討することになる。  まず「は」について「はし(橋*梯*箸*嘴*柱)」に意味的に通ずるものはないか。一拍語「は」には適切なものはなさそうであるので、「は」を語頭にもつ複合語(熟語)について見ると、棒状の細長いものに似たものに次のようなものがあるであろう。  「はぎ(脛)(つるはぎ鶴脛)」「はみ/へび(蛇)」「はも(鱧)」「はり(針)」  これらは支援材料としては申し分ない。一拍語「は」がさまざまな意味をもつ中で、細長いものをも意味したことは間違いないであろう。後項の「ぎ、み/び、も、り」は今のところ不明である。だがこれではいささか迫力に欠けるのでもう少し材料がほしい。そこで同様に次に「し」について見る。  「あし(足)」「あし(葦)」「かし(柯*牁牆)」「くし(串*櫛)」「くじ(籤)」「さし(砂嘴)」「さし(差*尺)」  ここに「あし足、あし葦」のア接語が存在するということは、これら二語は本来は一拍語「し」であったということを意味する。細長い棒状のものを指す「し」という一拍語があった。後にそれを細かく言い分けるためにさまざま接頭語をつけて、長語化し、意味を細分化していった。ここでは「あし足*葦」が代表的である。”足”の場合、当初の「し」が時代の経過とともに「し→あし→あ」と長語化していった。最後の「あ」は単独では使われず、造語成分である。「かし(柯*牁牆)」は川や海の浅瀬で舟を舫うために打ち込む木杭のこと、「くし串」は言うまでもないであろう。髪を梳く「くし櫛」は、小さな串を並べて一方の端を漆や糊で固めたものであり、「くし串」と同語と考えられる。  こうして見ると、「はし(橋*梯*箸*嘴*柱)」は、「は+し」と分けて考えることによって、前項の「は」自体に長い棒状のものの意があると同時に、後項の「し」が”棒”、”丸太”を言う一拍語そのものであり、合わせて「はし」は長い棒状のものを意味することが明確になったと言えるであろう。ただし「し」は動かないが、「は」には何か別の特定の意味があるかも知れない。  以下は蛇足であるが、「高橋」談義である。周知のように”高くかけた橋”の意という「たかはし(高橋)」なる成句が僅かな古例とともに、地名、姓名として広く全国に行われている。だが通常に両岸に水平にかける橋のほかに、”高くかけた橋”や”低くかけた橋”があるのであろうか。洪水よけの目的で橋の両端に階段を設けて高くしたような橋があったかも知れない。だが仮にいくつかはあったとしても、「たかはし(高橋)」の語が広がるほどには全国に広がっていたとは思われない。「たかはし」は川にかけた”橋”では意味をなさない。”高くかけた橋”の意の「たかはし」は筆者には理解不能である。  ここは、上で見たように「はし」を”柱”ととって、「たかはし」を「高い柱」とすれば大変すっきりする。おそらくよく知られた諏訪の御柱祭や北陸地方の遺跡に痕跡が見られるという太古の和人の”立柱”儀式の風習を引く古い言葉ではないかと考えられる。もし古い用例が”高くかけた橋”ととられるとすれば、それは”高い柱”が忘れられた後の用語と見たい。正しい結論を得るには国民規模の議論が必要であろう。完
2020/05/25
 和語で”小さい”ことを言う語にはここでとり上げる「ち/つ(小)」系のほかに、「こ(小)」系、「を(小)」系の三つがある。さらに接頭語的に表れる「さ/そ(小)」系なども数えられるかも知れない。これらは、それぞれ意味や使う場所が相異なるのか、禁句のようであるがこれらをこの地にもってきた人たちの出発地が異なるのか、悩ましい。いつか包括的に解明されるときが来ることを願っている。  標記の「ちかし」「ちひさし」は「ち(小)」をもとにする語であることは明らかであるが、その語形を理解することができない。試みに動詞図を作ってみると次のようになるであろう。そこから「ちかし」「ちひさし」が出て来るかどうか。下の黒丸〔●〕である。 ち(小)-ちく(小く)=ちぢく(縮ぢく)-ちぢかむ-ちぢかまる「ちかし近」〔●〕                     -ちぢくる-ちぢくれる                     -ちぢこむ-ちぢこまる     -ちふ(小ふ)「ちひ、ちひさし(小さし)」〔●〕     -ちぶ(禿ぶ)-ちびる(禿びる)〔擦り減る〕「ちび」「ちんぴら」     -ちむ(小む)=ちぢむ(縮ぢむ)-ちぢまる「ちぢみ縮」                     -ちぢめる     -ちる(小る)=ちぢる(縮ぢる)-ちぢらす-ちぢらせる(散る)                     -ちぢれる            -ちらく(散らく)-ちらかす                     -ちらかる                     -ちらける            -ちらす(散らす)-ちらせる「しがらみちらす、なきちらす、ゐちらす」            -ちらふ(散らふ)            -ちらぶ(散らぶ)-ちらばる-ちらばらす-ちらばらせる し(小)-しく(縮く)=しじく(縮じく)-しじかむ-しじかまる(縮かむ)(t-s相通形)     -しむ(縮む)=しじむ(縮じむ)-しじまふ(進退)「しじみ蜆」                     -しじまる(縮まる)                     -しじめる     -しる(縮る)=しじる(縮じる)-しじれる(縮れる) つ( )-つづ(約づ)-つづむ(約づむ)-つづまる「つづ星」                     -つづめる            -つづる(綴づる)-つづろふ     -つぶ(粒ぶ)-つぶす(粒ぶす)-つぶさる-つぶされる(潰ぶす)「つぶ粒」            -つぶる(粒ぶる)-つぶらす-つぶらせる                     -つぶれる     -つむ(粒む)=つづむ(約づむ)-つづまる                     -つづめる            -つむる(瞑むる)-つむらす-つむらせる つ( )-つぼ(壺ぼ)-つぼむ(壺ぼむ)-つぼます「つぼ壺」「つぼ坪」                     -つぼまる                     -つぼめる     -すぶ(窄ぶ)-すぼむ(窄ぼむ)-すぼます-すぼませる(t-s相通形)                     -すぼまる                     -すぼめる す( )-すず(縮ず)「すず鈴」(t-s相通形)     -すぶ(窄ぶ)-すぼむ(窄ぼむ)-すぼまる                     -すぼめる -- 「つび/つぶ/つむ粒*潰、つび海螺、yiなつび稲粒」「いほち五百箇、はたち二十箇、ひとつ一箇、みそち三十箇」 -- 「ち/つ、ちひさ」「ちか近(「ち小+か処」と見る)」「ちびちび、ちびる、ちまちま」 「つま/つば:つばひらか/つまひらか、つばらか、つばらに;つび、つぶ、つぶる」 ち小(ti)「ちか近;ちかし近、ちかづく、ちかやま近山」「ちぢく/しじく縮//ちぢむ/しじむ縮」「ちひさし小(「ちひさことねり少小舎人/神楽歌」が唯一例)」「ちび小/ちぶ/ちびる禿」 縁:ち/つ(つぶ) ウ接:「うち内/うつ内」 --  小さいことやものが集約されているタ行渡り語「ち/つ」である。もうひとつの「こ小*子」系統語との関係の解明が待たれる。  上図の「ちふ(小ふ)」は説明のできない「ちひさし」を導くために作ってみたものである。「ちぶ」があるところからさして無理とは思われないが、証拠となるものはない。 --  思いつくところを二三つけ加えれば、 1)「ちひさし/ちひさな」と「おほきし/おほきな」の二語は、いわゆる形容詞の中でも特異な形をしている。意味をもつ語頭の一拍語の後に”ハ行”をとり込み長語化している。「とほし(遠し)」が入るかも知れない。 2)「たかし高/ちかし近/ふかし深/わかし若/をかし惜」は、同じ「○+かし」の形をしているが意味や理由は不明である。「たかし/ちかし/ふかし」と「わかし/をかし」とが意味の上から二分される。 3)模写語「ちかちか」「ちくちく」「ちびちび」「ちまちま」「ちらちら」「つぶつぶ」などの「ち/つ」は明らかに”小さい”状況を表わしている。第二拍の「か、く、・・・」がその”小さい”状況を細かく言い分けていると考えられる。 4)「ひとつ、ふたつ、みっつ」の「つ」は、助数詞と言われるが、この”小さい”意味の「つ」と考えられる。  以上とりとめもなく。完
2020/05/25
 前に「「まだまだ」-不十分な(md)縁語群」と題して「まだし、まづし、みぢかし」などの(md)子音コンビ語をとり上げ、これらは”十分な状態に達していない”未熟、未達の意の(md)縁語群であるとし、「みじかし」は誤りで「みぢかし」が正しいと書いた。  これはいささか舌足らずで気になっていたので、ここで二三思いつきを補足したい。...
2020/05/03
 町の至るところでコンビニ店を目にする時代となって、そこで手に入る「おにぎり」や「おむすび」は小腹を満たす簡便な食べ物の代表となったようである。機械で作った独特な形をしきっちり包装されて棚に並んでいる。昔は母親が梅干しや塩昆布を中に入れ手早く握って子どもたちにもたせたものである。それを「おにぎり」と呼んでいたか、それとも「おむすび」であったか。「おにぎり」や「おむすび」を手で作る時代はそれこそ三千年続いたわけで、今はまさに革新のさ中にあることになる。そもそも「おにぎり」「おむすび」とは何か、どう違うのか。  大昔、和人は「こめ(米)」を「こしき(甑)」(不明語)で柔らかくなるまで蒸して「いひ(飯)」にしたり、土器で「かゆ(粥)」や「しる(汁)」にして食べていたであろう。「いひ」は、これはもとは一拍語「ひ(飯)」であったがいつの頃か接頭語「い」をとって長語化し「いひ」となった。「ひ」は、本来は「あは(粟)」や「ひye(稗)」を蒸したり炊いたりしたものを言い、後に大陸から米が到来して米をも含めるようになったはずである。「こめ」はおそらく「まめ(豆)」と「め」縁語の関係にあり、単に小粒の穀粒の意である。米を実らせる草は「yiね/しね(稲)/よね」(yn子音コンビ語)であったであろう。当初、和人は「ひ」を手で掴んだり握ったりして食べていたに違いなく、ずっと後になって「はし(箸)」を使うようになったと思われる。  米には、大きく分けて、われわれが日常”ご飯”として食べる粘り気の少ないぱさぱさした「うるち(粳)」(不明語)とお正月の餅になるもちもちした「もち(糯*餅)」(模写語か)米の二種類がある。日本列島には両方とも相次いでもたらされたと考えられているが、詳しいところは不明である。  こうした雑駁な知識が役に立つか無用に終わるかはともかく、このような状況の中で「おにぎり」や「おむすび」は生まれたであろう。 --  先ずは「おにぎり」である。これはもちろん三拍動詞「にぎる」の名詞形である。では「にぎる」とは何か。考えて見れば「にぎる」にもいろいろありそうである。例えば車のハンドルを「にぎる」と「おにぎり」を「にぎる」とはどうも同じ「にぎる」とは思えないところがある。さらに新しく日本人の生活に入り込んできた”握手”である。漢語で”握手”と言う限りは問題ないが、これを「手をにぎる」と言い換えるととたんにおかしくなる。また「おにぎり」を「にぎる」ことと対面相手の「手をにぎる」ことは全く別の行為であろう。 (1)”ハンドル”を「にぎる」  今日「にぎる」は、日常的には自転車や自動車のハンドルを「にぎる」ことがもっとも一般的であろう。そのほか杵や鍬や槌のような柄(え)のある道具の柄を「にぎる(握る)」ことも同じである。そうして、ハンドルを「にぎる」のはそれを「にぎる」ことが目的ではなく、車を動かすためである。鍬や鋤の柄を「にぎる」のも田畑を耕すためにである。どうやらこれがひとつの、もっとも一般的な「にぎる(握る)」行為であるようである。これは「おにぎり」とは関係がない。  この「にぎる」は、今のところ、これ以上分けて考えることも縁語を見つけることも難しい。「なぐ(流ぐ)、にぐ(逃ぐ)、ぬぐ(脱ぐ)、のぐ(逃ぐ)」の密な(ng)動詞群があるが、ここには入りそうにない。これは独立の(ng)語として扱うほかなさそうである。 に( )-にぐ(握ぐ)-にぎる(握ぎる)-にぎらす-にぎらせる                     -にぎらる-にぎられる (2)”手”を「にぎる」  もうひとつの「にぎる」は「手をにぎる」である。西洋から輸入された社交上の形式としての握手はここではおいておく。だが相手の「手をにぎる」ことによって相手に親愛の情や同情を示し、相手の健康を慶賀し、幸福を祈念することなどはどこでも大昔からあるであろう。男どうしの場面はあまり見ないが、男が女に愛を迫って手をとったり、女同士が互いに近寄って両手を胸の辺りで握り合い、久闊を叙したり、互いの健勝を喜び合う場面を見ることは映画でもよくあるであろう。自然発生的な握手である。これは”ハンドルを握る”とも”おにぎりをにぎる”とも異なっている。  上記のような「にぎる」を和語の語彙体系、或いは(ng)/(nk)動詞群の中に位置づけることが出来るかどうか。この「にぎる」は「なぐ(和ぐ)」動詞群に属するものと考えられる。くだくだしい議論はおいて、動詞図を作ってみよう。以下は全部ではないが、上に述べた「(手を)にぎる」は下図の〔●〕印をつけた「にぎる」であることを示すために関係部分を示す。 な( )-なぐ(和ぐ)-なぐす(和ぐす)-なぐさむ-なぐさめる-なぐさめらる-なぐさめられる「なぎ凪」                          -なぐさもる            -なごす(和ごす)「なごし和シ」            -なごむ(和ごむ)-なごます-なごませる     -なづ(撫づ)-なだす(宥だす)「うちなづ打宥、かきなづ掻宥、とりなづ取宥」            -なだむ(宥だむ)-なだまる                     -なだめる-なだめらる            -なだる(穏だる)-なだらむ「なだらか」            -なづる(撫づる)            -なでる(撫でる)-なでらる-なでられる     -なづ(泥づ)-なづく(泥づく)            -なづす(泥づす)-なづさふ-なづさはる「おちなづさふ落泥」            -なづむ(泥づむ)「おりなづむ降泥、くれなづむ暮泥、こしなづむ腰泥」     -なゆ(軟ゆ)-なやす(軟やす)《なよなよ》 に( )-にく(和く)-にきぶ(和きぶ)            -にきむ(和きむ)            -にこぶ(和こぶ)《にこにこ》            -にこむ(和こむ)     -にぐ(熟ぐ)-にぎぶ(熟ぎぶ)            -にぎむ(熟ぎむ)            -にぎる(熟ぎる)(祈ぎる)〔●〕 ぬ( )-ぬく(温く)-ぬかる(温かる)-ぬかるむ            -ぬくむ(温くむ)-ぬくまる「ぬくし温シ」《ぬくぬく》                     -ぬくめる                     -ぬくもる     -ぬる(温る)-ぬるむ(温るむ)-ぬるめる う( )-うる(  )-うるむ(潤るむ)「うるうる」(n-&)相通語 ね( )-ねぐ(労ぐ)-ねがふ(願がふ)「ねぎ禰宜」「こひねがふ乞願」            -ねぎる(労ぎる)-ねぎらふ  この「にぐ-にぎる」は、その下の「ねぐ-ねぎる」と同じ意で、相手の幸運や幸福やを「にぎる(ねぎる)」ことが本意で、その際おそらく相手の「手を握って」願いごとを言った。その「にぎる(ねがひごとをyiふ)」から「手を握る」ことのみ今日に残って、手を握りながら「ねぎごとを言ふ」ことの方は忘られたと考えると辻褄が合うであろう。 (3)”おにぎり”を「にぎる」  これは「にぎる」こと自体が目的である。飯を丸めておにぎりにすることが「にぎる」である。この「にぎる」は明らかに上記の棒や柄やハンドルを「にぎる」とは異なる。  和語の動詞体系の中での位置づけであるが、ひとつの可能性として二拍動詞「きる(切る)」のニ接語を想定してみた。動詞図は以下のようである。 か(刈)-かる(刈る)-からす(刈らす)-からせる「かる(狩る)」            -からる(刈らる)-かられる き(切)-きる(切る)-きらす(切らす)-きらせる-きらせらる-きらせられる            -きらる(切らる)-きられる く(刳)-くる(刳る)-くらる(刳らる)-くられる こ(樵)-こる(樵る)「きこり(木樵)」 カ接:かぎる(限ぎる) ク接:くぎる(区切る) シ接:しきる(仕切る) チ接:ちぎる(千切る)-ちぎらす-ちぎらせる            -ちぎらる-ちぎられる「もちひ(餅)」を「ちぎる」            -ちぎれる ト接:とぎる(途切る) ニ接:にぎる(瓊切る)「おにぎり、にぎりひ(握飯)」〔●〕 ネ接:ねぎる(値切る) ミ接:みきる(見切る) ヨ接:よぎる(横切る) ヱ接:ゑぐる(ゑ刳る)  これは、石刃、石斧を用いたさまざまな「切る」行為を表現する(kr)縁語群である。筆者は、ここで”おにぎり”を「にぎる」を「きる(切る)」のニ接語「に+きる」と見たものである。これは「切る」のであるからぱさぱさの米飯に使うのは難しい。おそらくねばねばの餅について、それを石刃で”切って”、或いは手で”にぎって”食べたのであろう。それが「おにぎり」である。この「にぎる」は完全に「ちぎる」と重なり合っていると考えられる。「おにぎり」は「おちぎり」である。「に」と「ち」は(n-t)相通関係にあり、「おにぎり」と「おちぎり」の交錯は十分考えられる。接頭語の「に」は、特に意味のない小辞と思われるが、強いて言えば”玉”の意の「に/ぬ(瓊)」ともとることが出来る。  石臼に一杯の搗いたばかりの餅を食べやすいように適切な大きさに手で切り分けることが「にぎる」であり、そうしてできたものが「おにぎり」であったと考えられる、餅そのものでなくとも、もち度の高い飯についても団子状態にしたものが「おにぎり」だったであろう。 -- 「おむすび」  「おむすび」は、議論の余地なく三拍動詞「むすぶ(結ぶ)」の名詞形である。「むすぶ」は下に見るように二拍動詞「すぶ」が接頭語「む」をとったム接語である。動詞図は、大きい図の一部であるが、次のようになるであろう。 す(狭)-すぐ(縋ぐ)-すがふ(縋がふ)            -すがる(縋がる)     -すぶ(統ぶ)-すばる(統ばる)「すばる昴、すべつどふ、すべをさむ、みすまる、とりすぶ」            -すべる(統べる)「すべら皇」            -すぼむ(窄ぼむ)-すぼます-すぼませる                     -すぼまる                     -すぼめる    -すむ(統む)-すまふ(争まふ)「すまひ(相撲)」            -すまる(統まる)「うづすまる、みすまる御統」            -すめる(統める)「すめかみ、すめみま、すめら/すめろ統*皇、すめらぎ/すめろき皇男」 ム接: むすぶ(結ぶ)-むすばす-むすばせる「おむすび」〔●〕            -むすばる-むすばれる            -むすべる            -むすぼふ            -むすぼる  二拍動詞「すぶ(統ぶ)」は「すぶ-すべる」と長語化し”統治する”の意で、上に見るように「すべら/すめら(皇)」に通じている。ところで「すぶ」の本来の意味は「せばめる、せまくする」で、”統治する”とは、語義からは、”統治者と人民との間を狭める、人民どうしの間を密にする”意となるであろう。要は散漫な形の人民の集合を統治者のもとに集結させる意と考えられる。  そこで「おむすび」であるが、これは明らかにぱさぱさの飯粒を手にとって粒と粒の間を狭める、即ち締め固める意である。飯粒にもち度がなくぱさぱさの飯は食べにくいので、団子状に手で締め固めたものであろう。三角形であったかも知れない。それが「おむすび」である。 --  結論として、上記の長い議論から明らかになったことは、「おにぎり」は餅状の飯を千切って丸めたもの、一方「おむすび」は、逆に、ばさばさの飯粒を団子状に締め固めて丸めたものであった。どちらも食べやすくするための工夫である。これらの語の成立の時期であるが、「おにぎり」は難しいが、「おむすび」は二拍動詞「すぶ」に接頭語「む」がついた形で、おそらく二拍動詞から三拍動詞へ至る中間時点ということになるであろうか。絶対年代を知ることは今のところ難しい。 完
2020/04/27
 一拍語「も」には辞書によれば「も母*妹、も裳、も百、も藻、も喪、も最、も面、も身、も腿、も茂、も守、も盛、も漏」などがある中で、ここでは「も(面)」をとり上げてみたい。...
2020/04/16
 古事記に述べられるいわゆる出雲神話の中に「yiなば(稲羽)のしろwuさぎ(素菟)」がある。話の大筋は次のようである。...
2020/04/12
「かく(駆く/翔く)、かつ(徒つ)、かる(駆る)、きす(来す)、くゆ(越ゆ)、くる(来る)、くwu(蹴wu)、ける(蹴る)、こす(越す)、こす(来す)、こゆ(越ゆ)、こwu(蹴wu)」 -- か( )-かく(駆く)-かくる(駆くる)            -かけす(駆けす)-かけさす-かけさせる            -かける(駆ける)-かけらふ...
2020/04/12
「かく(欠く)、きゆ(消ゆ)、くゆ(消ゆ)、くる(消る)、けす(消す)、けつ(消つ)、けぬ(消ぬ)」 -- か(欠)-かく(欠く)-かかす(欠かす)            -かくす(隠くす)-かくさす-かくさせる                     -かくさふ                     -かくさる-かくされる...
2020/04/09
 われわれの言葉の中でもっとも謎多い語のひとつが「たましひ」である。この語は、大きく分けて、例えば「たましひが抜ける、たましひを入れかえる、たましひを冷やす、たましひを揺すぶられる」などと使われるが、これは身体の中のどこかにに抱えている玉型の「たましひ」なる物のようであり、「やまとだましひ(大和魂)、職人だましひ、武士のたましひ(刀)」などでは無形の”心意気”であるであろう。意味するところもいろいろであれば、この語自体がさっぱり分からない。諸辞書は、この語自体には触れず、さまざまな用例から「たましひ」の意味すると思われるところを抽出して開陳している。  そこで言葉そのものに戻って考えるとどういうことになるか。「たましひ」は「たま+しひ」である。これ以外は考えにくい。そこで問題は「たま」とは何か、「しひ」とは何か、両方を合わせるとどうなるか、ということである。  前項の「たま」は後に回して、後項の「しひ」であるが、差し当たりこれは二拍動詞「しふ(癈ふ)」の名詞形である。この「しふ」は人間の感覚が機能しなくなることを言い、「みみしひ(耳癈*聾)、めしひ(目癈*盲)」の語が知られている。二拍動詞「しふ」にはもうひとつ強制する意の「しふ(強ふ)-しひる」がある。これは現代語でもあるが明らかに別語であり、ここには適切ではない。むしろ同じ(sh)語の妨げる意の「さふ(障ふ)-さはる」が近く、これは「しふ」の縁語と見ることができるかも知れない。最後に「しひ」には「しひの木ばやし」の名詞「しひ(椎)」があるがこれも関係ない。結局「しひ」については当面「しひ(癈ひ)」に絞って考えていくほかない。  因みに日国の「たましひ(魂*魄)」の語源説欄には13説が挙がっているが見るべきものはない。「たま」は一二を除いて「玉」との見立てであり、「しひ」は、すべて「癈ひ」を無視して、さまざまに思いめぐらせている。もっとも分かりやすいのは『タマは玉で貴重の義、シヒは霊の義〔日本釈名〕』と「玉垣」や「玉江」と同じ構造と見るものであるが、「しひ」に「霊」の意味はない。捏造である。「しひ」を「し+ひ」とふたつに分けて論じているものもあるが、これも無理筋である。  「たましひ(魂)」の「たま」は、日本人ならだれもがまず”玉”を思い浮かべる。”たま(玉)”は、今日言うところの”ボール”である。球体である。「あたま(頭)、めだま(目玉)、たまご(玉子)」の「たま」である。この「たま」は、別項でも指摘しているように、語の構成は「た(接頭語)+ま(丸)」で複合語である。”丸い”ことの意味は後項の「ま(丸)」にある。前項の「た」は、一拍語「ま」を安定させるためのおそらくほとんど無意味の接頭語である。ということは、「たま」は、一拍語「ま」が長い時代を経て長語化した後の語ということになる。「たま」がいつごろ成立したかは不明である。  この「たま」に今日漢字の”魂”を当てて、「たましひ」によく似た意味を預けている。「ひとだま(人魂*人玉)」が代表であるが、夜の墓場で尾を引きながら飛ぶという青い火の玉である。これは、単に”球体”をいう「たま」に対して、和人が長い時間をかけていつか漢語で言う”魂*霊魂*魂魄”のような意を付与したのであろう。「たま」にはほかに「さきたま幸魂、いきすだま生霊、にきたま和魂」などがある。  ところで、上記の「たま」は本当に”玉、球体”のことなのか。タ接語「た+ま」のほかに本来の二拍語「たま」はないのだろうか。諸辞書が示唆するのは「おやだま(親玉)」に代表される”ひと(人)”である。ほかに「あらたま(荒魂)、かへだま(替玉)、にきたま(和魂)」など、また和語とは言えないが「悪玉、善玉、上玉」などがあげられている。”あいつはいい玉だ”というのもそれである。諸辞書は、これらの”人”は「たま(玉)」がもつさまざまな意味のひとつとしている。だがここで指摘されている”人”の意味の「たま」は、”玉”とは別の独立した語ととることはできないか。複合語ならぬ単語の「たま」である。そこで思い当たるのが「たみ(民)、つま(夫*妻)、とも(友)」の(tm)縁語のひとつではないかということである。「たま、たみ、つま、とも」である。もともと”人”を言う「たま」なる二拍語が存在したが、後に出現した「たま(玉)」という同音別語が勢力を得て「たま(人)」を飲み込んでしまったという図である。従来の「たみ、つま、とも」については、筆者は「つま」に注目して”血縁なき仲間”と規定しているが、もし「たま」が入ってくると見直しが必要かも知れない。  では「たま」が”人”であるとして、「たましひ」や「ひとだま」はどうなるか。もちろんぴったりの「たま=ひと」ではない。そこが考えどころとなる。前述の「みみしひ(耳癈*聾)、めしひ(目癈*盲)」から見ると、これらは”ひと(人)”なる本体とは別に、それに付随している「耳、聴力」や「目、視力」が機能を失っていることやその人を言っている。ということは「たま」とは「ひと」がもっている”生命力”ということで、「たましひ」とは”生命力が機能しない”人ということになる。このとき、生命力を失った「ひと」は死体である(死んでいる)が、「たま」は「たましひ」となって存在している(生きている)ことになる。この「たましひ」が一人歩きするようになって、さまざまに解釈されさまざまな意味が付与されることになった。  「ひとだま」は、おそらく「人玉」で、これはずっと後の複合語(「た+ま」)の時代の語であると考えることによって当面の困難は回避される。 --  なお次のように”人”を言うタ行渡り語「た/つ/と(人)」が成立すると思われる。 た:たま(人*玉)、たみ(民) ち: つ:つま(夫*妻) て: と:ひと(人)、とも(友*伴) -- 完

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