「ぬ」物語(009)

 

 アイヌ語において一拍語「ぬ」は特異な語である。「ぬ」は、いくつかの意味をもっていたであろうが、その中で顔面にある目や耳や口や鼻などの諸器官の名称と働きをこの一語で言い表している。つまり現代の日本語で言う目で「見る」、耳で「聞く」、鼻で「嗅ぐ」、喉で「飲む」といったばらばらの重要な動作が、アイヌ語では実に「ぬ」一語なのである。それだけでなく食物を「味わう」も肌に触られたことを「感じる」ことなども「ぬ」であるという。

 

 この「ぬ」はもちろん原始日本語において行われていたものである。それが原始日本語の和語、琉球語、アイヌ語への三分化にともないそれぞれが等分に受け継いだが、アイヌ語においてもっとも古形が保存されてきた。これら三語の間で互いに影響し合ったということは考えにくい。しかしアイヌ語においても「見る、聞く、嗅ぐ」の働きには「ぬ」を残しても、それぞれの器官の名称はどれも別語に入れ替わるなど大きな変化があった。

 

 

(1)和語の「みる(見る)」

 

 現在日本語では「め(目)」でものを「み(見)」る。目の周りには「まぶた(目の蓋)」や「まつげ(目の毛)」などがある。これら”目”にまつわるマ行縁語群は日本人には空気のように自然なものである。しかしこれは古いものではない。だが和語だけを睨んでいてもまったく手掛かりがなく一歩も進まないので、ここは琉球語とアイヌ語の状況を覗いてみることとする。

 

 琉球語では”目”は「みー」とマ行語であるが、「見る」は「ぬーん、んじゅん」とナ行語になる。「まぶた」「は「みーがー(目の皮)」、「まつげ」は「まちぎ(目の毛)」である。和語では「ん」が語頭に立つことはないが、琉球語では「ぬ」や「む」「う」などが変化して「ん」となる語は少なくないという。「んじゅん(見る)」は「ぬ」語である。

 

 ところがこれがアイヌ語になると目は「しく/しし」、”見る”は琉球語と同じくナ行語「ぬ」であり、「ぬ」は長語化して「ぬから(見る)、いんから(見る)」などさまざまな語形をとる。「まぶた」は「しくかぷ(目の皮)」、「まつげ」は「しくらぷ(目の羽)」と独自路線をとっている。

 

 これを解きほぐすことになるが、ここでの眼目は「ぬ」である。それと言うのもアイヌ語では目で「見る」ことは上記の通り「ぬ」であるが、そのほか耳で「聞く」ことも鼻で「嗅ぐ」ことも口で「吸ふ」こともどれも「ぬ」なのである。それのみならず”顔”も”目”も”耳”ももとは「ぬ」であった。どうやら顔にある器官の名称とその働きは原始日本語の段階では一拍語「ぬ」で大きく括られていたようである。これの解明は今後の大きな課題である。ともあれ「ぬ(見る)」が鍵であるであろう。

 これをもとに和語の”見る”をかんがみるに「みる(見る)」はどうやら意味のよく似たナ行語「にる(睨る)」の後の姿、即ち(n-m)相通形ではないかということに思い至る。そのいきさつは次のようである。

 

 まずは「にる」と「みる」の動詞図を作って見る。

 

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な( )-なぐ(  )-ながむ(眺がむ)-ながめる

    -なむ(眺む)-なめる(眺める)「なめるように見る」

に( )-にむ(睨む)

    -にる(睨る)-にらむ(睨らむ)-にらまる-にらまれる

ぬ( )-ぬす(  )-ぬすむ(盗すむ)「ぬすみ見る」

ね( )-ねむ(睨む)-ねめる(睨める)

    -ねる(狙る)-ねらふ(狙らふ)-ねらはる-ねらはれる

の( )-のず(  )-のぞく(覗ぞく)

           -のぞむ(望ぞむ)

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ま(目)「まつげ、まなこ、まぶた、まもる、まゆげ」

み(見)-みす(見す)-みせる(見せる)

    -みる(見る)-みらる(見らる)-みられる

む( )

め(目)-めす(召す)「めくそ、めじり、めもと」

も(目)-もる(守る)~まもる(目守る)

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 上図から”見る”意のナ行語の充実ぶりに比べマ行語では実質的に「み-みす/みる」に限られることから、和語では”見る”の語は本来のナ行語「に、にる」が(n-m)相通現象によりマ行語に転じたものと判断される。これは原始日本語が和語、琉球語、アイヌ語に三分化した後の変化であることは言うまでもない。語形の移行と同時に意味の上でも微妙な変化が起こり、「ながむ、なめる、にらむ・・・のぞく、のぞむ」のナ行動詞群は新興の単調極まりないマ行動詞「み-みす/みる」を意味の上でさまざまに補完する役目に回っていると見られる。

 

(2)アイヌ語「ぬ」

 

 次に試みにアイヌ語「ぬ」の動詞図様のものをつくって見る。「ぬ」は「見る」以外に幾つもの意味をもっているのであった。

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ぬ(見る)-ぬか(  )-ぬかつ(   )-ぬかって(見せる)-ぬかってく(瞥見する)

                               -ぬからって(示す)

            -ぬから(見る )-ぬからぱ(見える)

                     -ぬからら(見せる)

                     ~あぬから(見る )

                     ~いんから(見る )~いんからぱ(見る)

                     ~いんがら(見る )~こいんがら(  )

                     ~のんから(様子を見る)

            -ぬかん(見る )-ぬかんで(見せる)「ぬかん ぬから(看病する)」

                     -ぬかんろ(見せよ)

            -ぬかれ(見せる)-ぬかれぱ(見せる)

            ~おぬか(見る )

     -ぬぱ(目が覚めている)

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ぬ(聞く)-ぬぱ(聞く)「ぬおけれ(聞きし)、ぬてく(聞いて)、ぬぷ(聞いたこと)」

     -ぬれ(聞かせる)~うぬれ(聞かせ合う)

     ~いぬ(聞く)  ~こいぬ(聞く)、~あぬ(聞く)、~えぬ(聞く)

     ~かぬ(  )  ~こかぬ(聞く)~いこかぬ(耳を傾ける)

     ~こぬ(聞く) 

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ぬ(嗅ぐ)~いぬ(嗅ぐ) 「ふら-ぬ(匂いを嗅ぐ)」 

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ぬ(味う)~いぬ(味わう)「けら-ぬ(味を見る)」

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に(吸う)-にれ(吸わせる)

ぬ(吸う)-ぬん(吸う)-ぬんぬん(吸う)

の(飲む)

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 これによればアイヌ語ではこれら動詞ではきれいに「ぬ」を残していることが分かる。こうした中でこれらの行動、動作を行う器官の名称が「しき(目)」「きさら(耳)」「ぱら(口)」のように「ぬ」語から離れてしまったことに

 

 ここまで来ると「ぬ」にどうして”話す、しゃべる”の意がないのかが疑問として残る。それに当たるかどうか分からないが、”ひそひそ話す”という意の「こぴぬぴぬ」なる成語があり、この「ぴぬ、ぴぬぴぬ」が或いは「ぬ」語の”話す”意を担っているのかも知れない。

 

 ここで注目したいのは和語で「味を見る」「毒見をする」という言い方の不思議である。われわれは何かのきっかけでふと日本語を反省的に見るとき「味見、毒見」に引っかかって「味を見る」とは何事かといぶかることがあるであろう。これは上に見るようにアイヌ語の「ぬ」、即ち和語にもあった筈の「ぬ」の今日形の可能性が考えられるのである。和語の「ぬ」が転々として「見る」に変わってももとの「味わう」という意味を「味見、毒見」の形で今日に残しているのではないかというわけである。

 

(3)琉球語「んじゅん(見る)」の「ん」

 

 最後になったが琉球語の「ぬ」である。この関係で琉球語がアイヌ語と和語につながっていることの証左は「ぬーん」の「ぬ」、「んじゅん」の「ん」の存在である。或いはほかにもあるかも知れないが、琉球語では原始日本語の「ぬ」が「んじゅん」の一語の「ん」でもって今日に生きている。

 

 もうひとつ興味を引かれるのか琉球語で”ひたい(額)”を言う「むこー」である。この「むこー」は本来の「ぬこー」が(n-m)相通変化したものと考えられ、「ぬこー」は和語の「ぬか(額)」に当たる。ところで日本語で言う「むこうきず(向う傷)」であるが、これはおそらく琉球語の「むこー(額)」+「きじ/きず(傷)」であるであろう。「むこうきず」の形で和語に入って来たのか、当時「ぬこー/むこー」が和語に入っていて、和語で「むこうきず」がつくられたのか。日国によれば初出は日葡辞書の由である。

 

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     |  和語        |  琉球語       |  アイヌ語

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 顔   |かほ、おも       |ちら面、かう顔、うも面 |なん、ぬ       |

 額   |ぬか、ひたひ      |むこー(ぬこー)    |のyiぽろ       |

 目   |め           |みー          |ぬ(目)、ぬむ(目玉)|

     |            |            |(しき)       |

 見る  |にる(睨る)      |ぬーん、んじゅん    |ぬから        |

     |みる(見る)      |            |           |

 耳   |みみ          |みみ          |(きさら)      |

 聞く  |きく          |ちちゅん、うんぬかいん |あぬ、いぬ、こぬ   |

 鼻   |はな          |はな          |(えとぅ)      |

 嗅ぐ  |かぐ、にほふ      |にゐ          |ぬ          |

 口   |くち          |            |           |

 喉   |のど          |ぬーでぃ        |(くつ、れくつ)   |

 飲む  |のむ          |ぬぬん         |(く、いく)     |

 吸ふ  |すふ          |すうゆん        |ぬ          |

     |            |            |           |

 (つづく)