「わ、ゐ、wu、ゑ、を(若/愚/烏滸/尾籠)」(034)

 

 ここは若さと若さゆえの愚行を言うワ行渡り語である。

 

 

    |  和語        |  琉球・沖縄語     |  アイヌ語         |

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 わ  |わか(若・ばか)、わらべ|わらび(童)       |              |

 ゐ  |うなゐ(僮子)     |ゐきが(男)、ゐなぐ(女)|              |

 wu  |wuかwuか、wuっかり  |             |              |

 ゑ  |            |ゑけり(兄弟)      |              |

 を  |をこ(烏滸/尾籠)     |をなり(姉妹)         |をっかyi/をっかよ(若い男)|

    |をけ(袁祁)      |             |              |

    |をぐな、をとこ、をとめ、|             |              |

    |をみな/をんな(女)    |             |              |

    |をなご(若女子)    |             |              |

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 お  |おきな(翁)、おけ意祁 |             |              |

    |おみな/おうな(媼)    |             |              |

 

 

 日本語では”ワ行拍(わ、ゐ、wu、ゑ、を)”は五十音図の中でおそらく最も多くの意味を担っているが、そのうちのひとつが”若さ”である。人生の最盛期をワ行拍で表している。それと同時に上表に見るように、「わか、wuか、wuこ、をけ、をこ」のように元気に溢れる若さと共にそれゆえの愚行をも表しているであろう。

 

 例えば和語の「ばか(馬鹿)」は「わか」、「ぼけ」は「をけ」の(w-b)相通語である。従ってわれわれが日常何気なく使う「ばかだなあ」は実は「若いなあ」である。このことは日国「ばか」の語源説欄に「ばか」は「ワカ(若)の転という〔猫も杓子も=楳垣実〕」説が見えるが、正鵠を得ている。そのほか「wuか」は「うっかり」を、「をけ猿」は大きな猿ではなく「ぼけ猿」を、「wuこ、をこ」は「馬鹿もの」を意味している。

 

 この”馬鹿”シリーズは、若さを言うワ行渡りの言わば裏の意味であり、本来の表の意味はもちろん”若さ”である。その典型は和語の「わか」、琉球語「ゐきが(青年、男)」の「ゐき」、アイヌ語「をっかい(少年、若者、男)」の「をか」である。これら「わか、ゐき、をか」の後項のカ行拍「か/き」は前に述べた男性性を言うカ行渡り語の「か/き」ととることもできる。だがこれらのワ行拍が男についてのみその若さを言うものでない。そのことは上表に見るように、「をとめ、をみな、をなご」、琉球語「ゐなぐ」のように女についてもしっかり使われる。

 

 アイヌ語「をっかyi」について、これは通常「おっかい」或いは「おっかよ」などと書かれている。語末の「い、よ」はいわゆる接辞であるが意味と表記を決めるのは難しいようであり、本稿でも適宜選択している。問題は「おっか」であるが、これは上記の(wk)語「わか、ゐき、をか」の「をか」の転と見る。これ以外にアイヌ語に”若さ”を言うワ行渡り語を見出すことができれば大きな支援材料となるであろう。

 

 なお「おっかい」は記録に留められた最古のアイヌ語のひとつとされている。和人によって江戸時代前期の寛永20年(1643年)函館で書かれた歴史書「新羅之記録」がそれで、そこには漢字で「乙孩(おつがい)」とある由である。

 

 最後に和語には上に見るように”若年”を意味する「を(wo)」と”老年”を意味する「お(&o)」の対立がある。

 

 図示すれば、「をぐな(若男)」-「をみな/をんな(若女)」

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       「おきな(老男)」-「おみな/おうな(老女)」

 

などとなるであろう。

 

 これをどのように理解すればよいか。今のところこの現象を的確に説明することは難しい。ただこのような事例が少なくないところから、和語(原始日本語)では例えば”若”と”老”を互いに切り離された二つの対立するものとは捉えず、連続する現象の程度の違いと捉えて、それを言葉に反映させていると見ることはできる。

 

 典型的には前にもとり上げた「ひ(火)」と「ひ(氷)」の共存である。ひとつの言葉におけるこの現象を理解するのは難しい。われわれの祖先は頭がおかしかったのか、どちらか一方を他語から借りてきたのか。それとも大陸のどこかで別々に使われていた「ひ(火)」と「ひ(氷)」を二人の人間がそれぞれ独立にこの列島にもち込んだのか。いろいろ考えられる中で、やはり日本人はこの地にあって両者を対立するものと捉えず、温度変化という連続する現象の両端であると捉えて輪にして命名したのではないか、などと妄想は広がるのである。

 

(つづく)